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指揮者のためいき

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[45] 奈良県合唱祭   [44] 信じる   [43] 演奏会を目前に控えて   [42] 鼻がムズムズ   [41] 年のはじめに・・・   [40] 全日本合唱コンクール ...   [39] 今だからこそ   [38] 求めるべき音   [37] 残念だなあ   [36] 忘れられない記憶   


(2005/06/23 17:51:54 〜 2004/09/02 21:51:47)


  [45] 奈良県合唱祭 2005/06/23 17:51:54 

奈良県合唱祭が終わって、シーズン到来っ!て感じになってきました。
毎年思うんだけど、やはりこの演奏の機会の位置付けって重要な気がするなあ。確かにとても気楽に歌えるし、一番のびのびと演奏できる。でもそこにそのグループの「らしさ」が凝縮しているように思うのです。

以下、合唱祭二日間で私が演奏した3つの団体について・・・。

『クール・シェンヌ』
 今回で23回目の出場。今回は26名での演奏となりました。1曲目は5月の演奏会で取り上げたヒナステラのRecordare Domine。技術的に難しくはないですが、この人数ではちょっと大変だね、やっぱり・・・。前半のポリフォニーがとても美しい名曲だと思います。パートの力量が丸見えでちょっとはずかしい(?)。後半は勢いだけって感じが否めないですが、誤魔化しは効かないんだよね。しかし、最近は人数も増えて選曲の幅が広がりました。これはとてもうれしいことです。音楽の訴えかけも強まり表現が多様に変化できるようになってきました。しかし逆に、これまで大切にしてきた「個」を重視する緻密さがややもすると見失われそうになってしまう・・・。これだけは気をつけないとダメ。だってシェンヌはあくまでも「室内合唱団」!、のはず、だよ、ね?
2曲目は今年のNHKコンクールの高校の課題曲「風になりたい」でした。・・・そうです。初めてのピアノ伴奏付!どうしても歌いたくなって予定していた曲から直前に変更したのですが、う〜ん、結構、いや、とっても楽しかったなあ・・・。シェンヌは日本語の曲を歌わない、無伴奏しか歌わない、って自分たちで勝手に思い込んでいたみたいだけど、やはり少しずつ可能性を広げていきたい。食わず嫌いなところがあるのよね、オレって・・・。
でも、まだ踊ったりはできないですから。絶対!

『OAKシンガーズ』
 あの、例の、解散しちゃったシェンヌのナヨナヨした男声合唱団。どうしてももう一度やってみたいっていうヤツがいて、で結局9人で始めちゃった・・・。曲は事前に相談されたけど、少ないから3声にしましょうね、ってことになって。しかしいつまで待っても練習に来い、との声がかからない。「なーんだ、やっぱ、辞退するんだな」と、少しホッとしていたら1週間前になって「合わせを見てくれ」って言われて・・・。「げっ!」って思ったけど、やる気だけはあるみたいだし。でも案の定「2小節に1時間半もかけるような練習」になったわけでして。「合唱祭賞を取れたらビールおごってやる」って半分キレながら約束したけど、まさか本当におごらされることになるとは夢にも思ってなかったのに・・・。しかし、その、自分たちで一歩前に進もう、みたいな意気込みは大好きだぞ。
「でも、やっぱりまた1年だけだったなあ」なんてことだけは避けてくれ・・・頼むから・・・。はずかしいし・・・。

『アンサンブル・テルミナ』
 奈良市で活動する女声合唱団。今年で8年目かな?「宝塚のコンクールに出てみたい」ということで発足したようですが・・・、道程は険しいよな。平均年齢とかはやっぱり言うと失礼なんでしょうねえ?ま、所謂「お母さんコーラス」に分類されるんでしょうか。ここでは徹底してルネサンスの宗教合唱曲を取り上げ、ハーモニー感覚を磨き、響きの統一感を目指して地道な取り組みが続きます。しかし、これが本当に難しい。特に響きをそろえることに関して言えば、(誠に失礼ながら)年齢的な「壁」があって劇的な変化はなかなか望めない。でもそれが団員の「求めるもの」である以上、私は絶対に妥協するわけにはいきません。見学に来られた方が1時間も見ていられないほどの殺気漂う雰囲気。いやあ、こんなこと書いたら新規入団者がいなくなる、って叱られそうだけど、とにかく厳しい練習だと思います。大きな声で怒鳴ってもテンション持ち堪えるのが精一杯で、他に何が変わるわけでもないことはわかりますが、でも実際には、それで緩んでいた気持ちが引き締まって練習の集中度が高まるってことがよくある。自分の状態をコントロールするには「気分で乗せられている」だけじゃダメですよね。目には見えない「感覚」を記憶するためには研ぎ澄まされた集中力が必要だと思います。気持ちも大切だけどそれだけでは何も生まれない。「壁」を越えることは実験であり挑戦でもあるから、私にそれを求めてくれる人がいる限り、一歩も引下がるわけにはいかないのです。

「その他、雑感」
 今年も舞台裏の仕事をしていたのでほとんどの団体の演奏を聴けました。去年も書きましたが、お母さんコーラスのパワーはすごいですね。しっとりとした音楽作りをしていたグループがいくつかありましたが、これはまた逆に年齢や経験のなせる業。
二日目はジュニアや中高生の熱演が光りました。伝統校、下市中学はよく鳴る声で今後一段の可能性を感じました。毎年書いている北大和高校はやはりうらやましくなるような素直な美声!
 終演後のレセプションパーティーでは、今年はシェンヌが担当で、雰囲気を盛り上げるのに頑張ってくれました。進行が気になってしまい講師の先生方とお話ができなかったのは残念でしたが、みんなが個性を発揮してくれたおかげで楽しい雰囲気の中で終えることが出来ました。真面目で控えめすぎるシェンヌですがそれぞれの中にはそれぞれの想いがあるんだろうな。そんなものがもっと表に見えてきて、今までとは違う、別の「らしさ」が発揮されたらいいのにな、と彼らが活躍する姿を見ながらそんなことを考えていました。

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  [44] 信じる 2005/06/20 17:16:58 

先月末の演奏会が終わったら更新しようと思っていましたが、結局今日まで先送る形になってしまいました。一昨日、昨日は奈良県合唱祭でした。裏方の仕事もあって、3団体の指揮をして、打ち上げでしっかり飲んで、二次会でまたしっかり飲んで、鱈腹食べて・・・で、月曜日はもちろん仕事で、何だかとってもしんどいなあ、と思ったら、今日の気温は30度を越えていました。あっと言う間に季節は夏・・・ですな。

先月末の演奏会は、結局心配していたことが演奏上のキズとなって現れてしまいました。しかも一番安心し切っていた女声合唱の演奏で、です。原因を探ればもちろんそれは様々な要素が一度に起こったわけでしょうが、直接的な原因は当日のリハーサルで私がその曲の通しを割愛したことだと思います。
「油断」したんです、私が。きっと。責任を感じてくれている女声メンバーには本当に申し訳ないことをしました。団員に向けてはすでに私の気持ちは話してありますが、やっぱり本番での演奏の「責任者」は指揮者なんです。

「シェンヌは本番に強い」・・・と、よく言われます。そして私たちも何だかそんな気がしていました。実際コンクールなんかでも練習の何倍も良かったことは何度もあるし、演奏会でもミスの少ない状態が続いていました。「8割方、練習で出来ていたらのこり2割は本番の・・・」なんて事は思ってなかったと思いますが、それでもそんなことを信じる空気があったことも確かなんです。
本番の適度な緊張感が演奏への集中度を高める、とか、ホールの音響の中で互いの音が明確に聞こえてくる、とかという、演奏する者なら誰もが感じるような理由はあっても、それ以外に「本番に強い」理由が見つからない。いや見つかるわけがないのです。

演奏上のミスはそのほとんどが技術的なもののはずです。確かな技術の裏付けの上でのみ、安心でき、安定感のある豊かな音楽が表現し得るはずです。磨き続けなければならない「技術」と「音楽」。活動の目指すべきその両輪のバランスが崩れ始めていることに気付かされました。
楽譜が読めない、ソルフェージュ力が未熟な団員が何人もいるんだからそれは当然のことなのに、目前に迫る本番を次々にこなしながら、しかも限られた練習時間で音楽的な内容の練習を求めてしまう中で、それは見失われていたのかもしれません。あ、いいえ、見失っていたのはトレーナーとしての私です。
反省・・・。

仕事が忙しくって練習に集まれないような状況が続く中、歌う喜びのその裏側にある、演奏や活動に対する「不安」を抱えながら私たちは歌い続けています。互いを信じ、目指すべき、形のないものをともに信じ、そしてそれらを練習の中のわずかな瞬間に見出そうと必死に探しているのもまた現実です。そんな「不安」からほんの僅かな時間でも開放されたいと思う、そんな心の間隙に生まれたのが
「シェンヌは本番に強いから・・・」
という根拠のない、ただの迷信・・・だったのです。

で、思ったんです、私たちに「安心」できる気持ちなど生まれるはずがない、と。
しかし不安を恐れず果敢に音楽に挑む姿勢は求め続けたいと、も・・・。

わたしは、それでも信じてついてきてくれる仲間のありがたさが痛いほど身にしみて、だから私も(奇麗事でなく)彼らを信じなければ、と強く心に思いました。

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  [43] 演奏会を目前に控えて 2005/05/21 16:38:47 

演奏会まで1週間。
やばいよなあ、仕上がりが悪いよ、絶対に。プログラム的にはそんな大きな曲も含まれていないんだけど、練習の組み立てがまずかったのかも知れない。いつも以上に細部にこだわって全体が形作れない。今夜を含めて残り4回の練習でどこまで出来るか・・・。
それは本番でのお楽しみ! なんて言ってる場合じゃない。

ホールが主催する演奏会なんてのはもちろん初めての経験で、それそれは本当にありがたいお話であります。会場の使用料は要らないし、チラシ印刷やチケットの販売、新聞等への広告、練習のためのホール使用、当日の人件費、などなどがすべて会館持ち。
いつもなら早くから役割分担して様々な準備に追われるところだけれど、そんな心配もなく、のんびりと「当日までに間に合えばいいか。」なんて気分が何となく漂っていて。
いや実際は運営上はほとんど問題ないんですが、そんな雰囲気が一番悪影響を及ぼしているのが恐らく、練習なんだと思います。
ホール主催だからこそ責任を持って・・・というのも当初から話し合って確認していたことなんだけど、「与えられる機会」を我がものとしてモチベーションを保つことの大変さを予測しきれていなかった。
自分たちでその機会を起こし、その成功を目指して気持ちの盛り上がりを共有していく、というこれまでのパターンじゃないってことが、何となくしっくりこないのだ。
余裕が与えられたことで音楽ともっと冷静に対峙できるはずが、その有り余ったエネルギーの使い方を誤ったのかもしれない。というよりその使い方を「知らなかった」というべきかもしれない。

こんなことを、恥をさらすようなことを、しかも直前になって言い出すなよ、ってメンバーの叱る声が聞こえてきそうです。もちろん、すでにチケットをご購入いただき、来場をご予定いただいている皆様には大変失礼なこととは十分に承知いたしております。
が、敢えて、今、こうして書くことで、これまでとの気持ちのズレを修正したい・・・と思ったのです。

何度も繰り返しの話になりますが、私たちは今まではずっと何かを「追い求めて」きたのです。自ら目標を定め課題を克服することで成長を感じ続けることができたのです。
しかしその後に生まれる満足感や達成感が果たして「何を」求めた結果だったのか?それが「純粋な」音楽に対するものとは、ほんの少し誤差があったのでは・・・、と、今回の演奏会に向けての取り組みの中で、痛切に感じることになったのです。

もちろん、決して手を抜いているわけでも歌うことが楽しくないわけでもない。
22年の歳月をかけて、我々の営みが「音楽」に向いていたのだ。と気付くことができたとしたら、その過程は何ら無駄ではなかったと言い切れると思うのです。
残されたわずかの練習が、そういった気持ちや時間の上にあることを噛み締め、ありきたりではありますが「全力」でぶつかる決意を持ちたいと思います。

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  [42] 鼻がムズムズ 2005/03/09 11:59:36 

春めいてきましたねえ・・・。
卒業生も送り出し、入試で新しい生徒を迎える準備をし始める頃。
そう、梅と花粉の季節。

また1年が終わったな、と一息つくこの年度替りが
1年のうちで 一番 大嫌い。
新しい一年に向かって、期待が膨らんでいかなくなったなんて、歳を感じてなんだか哀しい。

シェンヌも今年はたくさんのステージが待ってくれているけれど、なんだかイライラするばかりで練習も能率悪い。
「ちゃんと楽譜を読んできてください」
『いやー自分なりには頑張ってるんだけど・・・』
みたいな感じ。かみ合わないっていうか、次に進めないっていうか、実りないっていうか・・・。
「嫌々、歌うなら、もう来なくっていいよ・・・」って気持ちにもなりますが、だれもそんなつもりじゃないんだよなあ。
確かに「精一杯」で「一所懸命」なんだよね。
・ ・・そう、自分なりに・・・。

余裕がなくなってきたんだなって。
実際、目の前のことを「こなす」だけで精一杯の状態。
昔のように夢を語りあうことがなくなったなあ、そう言えば。
「関西コンクールで金賞取れたら、ビールかけしようぜっ!」って、まあその程度のくだらん話だったけど、現実を嘆くことより、叶いもしない夢を語ることのほうが多かったよなあ。

やっぱり大切にしたいなって思うんです。
22年も続いてくれたんだもん。もっと真っ直ぐに伸びっていって欲しい。
「ずっと続けることが私たちの夢です」ってみんなが胸張って言えたらいいな。素敵だろうな。

先月、名古屋で聴いたMIWOの演奏会。本当に素晴らしかった。
岐阜県のアンコンの審査員でサラマンカホールにお邪魔したときのゲストでMIWOが歌ってくれたんですが、第一声を聴いて「こりゃ、聴きに行かなきゃね」と思いました。詳しい感想なんかは私には書けないけれど、声は昔にコンクールで聴いた頃とは別物でしたね。「進化」してるって感じです。しかしそれにも増して腰の据わった、その音楽の安定感は見事です。
一緒にしちゃいけないけど、アマチュアの活動がコンクールのような「ものさし」を持ち続けなくても見事に成長を続け、存在の意味をもつことって有り得るんだなあ。

私たちもMIWOのようにはなれないけれど、
「そして何故、続けるのか?」を落ち着いて考える時期に来ているんだと思います。
今ならまだまだ間に合うはず。少しだけ気持ちの軌道修正を加えましょう。
花粉症の鬱陶しさのような、この重く引きずる状態から抜け出すためにも、一人ひとりが自らに問い直して見ましょう。

でも楽譜は読んできてね・・・。


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  [41] 年のはじめに・・・ 2005/01/24 15:04:18 

ご無沙汰しています・・・なんてもんじゃない。2ヶ月ぶりになってしまいました。
比較的時間に余裕はあったのですが、なんとなく・・・ええ、なんとなく書けなかったんです。思ったことを、まず書いてみて、それから考えることが多かったんですが、コンクール以降、ちょっとじっくり考えてみようかと。特に「何を」ということもないのですが。

今、シェンヌは次の演奏会に向けての準備に取りかかったところです。もともと3月に予定していた定演が、ホール主催のコンサート、という有り難いお話をいただき、急遽5月に日程変更させて頂きました。ご予定頂いていました関係の皆様には本当に申し訳ございません。

さて、新しい年を迎え「新鮮な気持ちで」スタートしたつもりですが、やっぱりなんだか去年と同じ。まあ劇的な変化はその後が怖いから、今ぐらいの「目には見えない程」の変化の方が(私の)性格上、安心できるんだとは思うのですが、あまりに変化がないもんだから、「そのうち、ストップしちゃうんじゃないの?」って結局不安になってしまう。

たぶん、みんな受け身すぎるんだと思うよ。なんだか中学高校の部活動みたいにも見えてしまいます。「よくわからないからもっと詳しく」と質問があってもいいし、「もう一度、今のところ、歌わせて」と要求する場面があってもいい。「そんなこと書くから余計に言いにくい」って攻撃されそうだけど、本当にみんな真面目に黙々と(?)歌うばかり・・・。澱みそうな空気をなんとかせねば、と発したギャグが「最近、冴えないね」と言われる始末。
「そこの指示、先週に言ったこととちがうんですけど・・・」って、そんなことだけはみんなの引きつった顔に書いてあるし。

今のシェンヌは「愛着」によって支えられているのだと思います。それはすごく感じるし、その暖かな雰囲気は得難いものです。でも中には「自分の夢を実現させるため」や「自分の理想の音楽を求めるため」の「実験的な場所」と捉えるヤツがいてもいいかもしれない。
言い換えれば今の状態にある程度満足しているメンバーが多いということだと思います。
しかしこのことは合唱団の「雰囲気」だけに影響するのではないような気がします。実際にはもっと多くの影響が私たちの演奏に出てきていると思うのです。

だから厳しく・・・というのでは解決にはならない。「愛着」があるならその「形」を見せて欲しいのです。そのすべてが自発性を持っているし、結局は団の「本当の意味」での活気を生み出すと思うのです。
「今年はそんなことを考えてみる年になればなあ。」という提案、っていうかお願い、です。
「え?2ヶ月かけてそんなことしか考えてないの?」・・・と、また鼻で笑われそうですが。

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  [40] 全日本合唱コンクールを終えて 2004/11/23 03:30:00 

でっかいホール!
客席の高さも相当なものだけど、ステージの間口から客席への左右の広がり方がすごくって、ステージそのものが小さく見えました。
いえ噂には聞いていたんですよ。「きちっと音の感覚の残る歌いやすいホールだよ」というアドバイスを頂戴したものの、その後聞いた話は「出した音が自分に返ってくるのが異常に遅い」とか「フルオーケストラでも5階席までは音が飛ばない」とか「ステージで演奏するよりも客席で演奏するほうが残響が長い」・・・。
およそ作り話にしか思えない、そんないい加減な噂を、「まさか・・・」と、話半分に聞いていたのですが、「え?あの話って冗談じゃなかったの、か・・・」。
気づいたのは演奏の1時間半前のことです。

響きや音楽が飛んでこない、ということが一番の問題でした。しかし同時に、音をまとまりとして包んでくれないということにも不安を感じました。直前のリハーサルで若干、並び方に工夫を加えたり、声のまとめ方について互いに確認したりしましたが、今さら何が変わるわけでもなく、ただ、届かないから「大きく」歌うのではなく、届かないから「届ける」意志を持って、と、ステージに出て行く団員たちの後姿に祈りました。

意外だったのは、いざステージで演奏を始めると互いの声が良く聴こえたこと。そして、客席では感じなかった「ホールの響き」をステージでは感じることができたことでした。

今、当日の録音を聴いてその演奏の「粗さ」を悔やんでいます。もちろん練習不足が第一の原因ではありますが、「届ける」想いが「力み」を生んでしまったんじゃないか、という心配があるんです。
一昨年、昨年の全国コンクールのホールは本当に素晴らしかっただけに、今回、そんなホールの響きをイメージしながら、音色、バランスなどに気を配って作ってきた我々の音楽の「目盛り」の単位が、その「力み」によってわずかに狂ってしまったのかも知れません。

翌日のBグループの演奏はすべてを聴くことができませんでしたが、なにコラの演奏は素晴らしかった。声の魅力、ブレンド感、柔らかさ、流れ、音色・・・どれをとっても欠点らしい欠点は見つかりません。貫禄の1位だったのではないでしょうか?しかし、そのなにコラをもってしても、弱音時のパート間のバランスに不安を感じたり、特定の人の声が聴こえてきてしまったりと、あのホールの難しさを痛感しました。

私たちの演奏後は多くの方々からお声をかけていただき、本当に感謝しております。お褒めの言葉が多く、ありがたいなって思います。が、自分たちの演奏は自分たちで聴くことはできません。どうか団員諸君には、演奏の悪かった部分を指摘しているような感想や意見に耳を傾けて欲しいと思います。

最後に、シェンヌのみんな・・・2年連続の金賞、おめでとう。夢のようなこの結果は、みんなが1年間、熱意と努力を絶やさずに自分たちの音楽、そしてそれを作り上げる活動を信じて取り組んできたからだと、私は(皮肉ではなく)心から、そう思います。

喜びの気持ちを何に変えていくべきか。そこで真価が問われます。
次への力を生みだす、その「何か」を作り得るのは団員一人ひとりです。
それ故に、シェンヌはあなたたち自身のものなのですよ。
もう一度・・・本当に、おめでとう。

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  [39] 今だからこそ 2004/11/16 16:15:40 

難しいなあ。簡単に歌える曲なんてないのは分かっていても。
「秋の歌」、手ごわいよな、おまえ。

関西コンクールのあと、もう一段階、演奏の精度を上げようとワイシャツの「皺を伸ばす」ような作業を繰り返していると、その部分はきれいに伸びても、別の部分にまた皺ができる。
歌い手の歌う技術と、指揮者のバランス感覚が重要なのは分かっていても、それは一朝一夕には解決しない問題。
堪り兼ねて、先日、私の尊敬する先生にレッスンしていただく機会を得ました。
いやー、素晴らしかった!目の前でどんどん音と言葉を関連付けながら整理されていき、音楽が見る見る、生き生きと輝き始めました。
だってさ、歌っている連中の目が違うんだもん。あんな風に喰らいつくような目で歌っている姿、オレは見たことないぞー!しかも、ちょっと、目、潤んでたりするし・・・。
そう、この落差がつらい。確かに辛い。でも、その辛さは私にとっては絶好のチャンス。アドバイスの全てを自分の中に取り込んで、それを理解し咀嚼をして自分の(音楽)言語に変換する作業を通して、ようやく自分たちの演奏を客観的に見る準備が出来る。そのポイントを団員と共有することで、新鮮さをもって再スタートできるのです。
本当に勉強になりました。ありがとうございました。

さて、今週末は松山でコンクールです。今となっては全てを出し切ることしかできません。練習で120%を経験していたら、もしかしたら本番に100点の演奏が出来るかもしれないけれど、練習のベストが80なら、本番で望めるのは60点・・・。それを、どのように自分たちが受け止めるべきかを、前回の練習後に全員で確認しました。
「ベストの演奏」・・・確かに曖昧な言葉です。気分じゃだめ。客観的にそれを判断できなければ。

2週間前、全国コンクールの高校の部は、やはりすばらしい演奏の連続でした。しかし、自分の聴き方が変わったのかも知れないですが、感動がなかったんです。
「す、すごい!」とは思うんだけど、それで終わっちゃう。ああ、もう昔のような聴き方は出来なくなったのかなあ。

Aグループのトップバッターは岐阜高校。これにはびっくりしました。高校Aの混声で、あれだけのクオリティーの演奏って、これまでになかったんじゃないかなあ。文句なしの一位だったと思います。
淀工も見事な演奏でした。人数がもう少しいたらもっとよかっただろうなあ。言葉の扱いは確かに素晴らしく何度聞いてもびっくりします。しかし言葉が音楽を超えた(?)ような感覚に陥り、「もっと声が聴きたい」と思ってしまいました。もちろん、それでも金賞は間違いない、と確信したのですが・・・。

Bグループは、もうお腹いっぱい(笑)
中でも浦和第一がすてきでした。私の中では一番、感動性のある演奏に思えました。訓練されていることを感じさせない、伸びやかな響き。言葉が生み出すナチュラルなフレージング。聴く者に安心感を与えるような、女声のみが放ち得る母性的な優しい音色。
聴く行為そのものが、耳や頭を介していることを忘れることのできる演奏って、やっぱり理想的ですよね。

コンクールを目前に控えて、団員の意識や、団の目指すもの、団のもつ欠点なんかが良く見えてきて、その度に、今の現状に不安を感じ「どうしよう?」と焦りをおぼえる。
コンクールを、自分たちが成長するためのものであると位置づけるとすれば、まさに今、その感じているものこそを、団員と共有し、共に悩み、考えていきたい。いや、そうしなければ意味がない・・・と冷静な自分が私の中でつぶやくのです。

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  [38] 求めるべき音 2004/10/20 16:44:35 

今年10個目の台風上陸。毎週のように警報が発令されて、学校では生徒は自宅待機。喜んでいる生徒も多いけど、奈良、特に北部は盆地になっていて気象災害の少ない地域なので、本当の恐ろしさを知らないのです。
奈良って そういうところなのです。

先週、パソコンがクラッシュしてしまい、修理に出しましたが、まだ戻らない。こんな経験初めてなんだけど、特に仕事で使っているわけでもないのに、使えないとなんだか不安・・・。ケータイを忘れてきて落ち着かない「ケータイ依存症」と同じようなものなのかも。
で、しばらく書けなかったので、まとめて書きます。

[関西合唱コンクール]10/10 池田市民会館
ありがたいことに「シード演奏」 なるものを経験させて頂きました。この日は午前に職場の部があって、引き続き一般B、そして一般Aの演奏と続きました。審査員の先生方が別室で審査をされている間の時間を利用して(?)シード団体の演奏。この日のシード演奏は3団体で、まず最初が松下中央、2番目が住友金属、そして最後がシェンヌでした。
職場の部、全国大会不動の1,2位団体のあとに演奏するというのは、はっきり言ってプレッシャーがかかりました。それぞれ100人と50人という人数で、シェンヌがショボく聞こえるのは間違いなく、審査発表待ちの、ほぼ満席の客席に、またもビビって・・・。それでもシェンヌらしい(いろんな意味で)演奏を心がけました。
が、練習でできないことは、やはり本番でもできるわけがなく、
「あ、やっぱり・・・」「あ、ここも・・・あ、ここも」と不安だらけの演奏。コンクールなんだけど順位はつかないわけですが、打ち上げだけはほぼ全員参加で、そこそこの盛り上がり。「全国に向けてがんばろう」の団長のことばもありました。で、やっぱり翌週の練習への出席率は低かったね。
さすが、シェンヌ!  って、ねえ君たち。そんなところでシェンヌらしさを発揮するもんじゃありません!!めっ!!

当日直前の練習のためにすべての団体の演奏を聴くことはできませんでしたが、聴いた中ではOutsiderの演奏がすばらしかった。2年前に聴いたときの柔らかさや、大人の歌い回しはなかったけれど、それでも歌心たっぷりに、男声だけでもこんなにつややかにうたえるんだ、みたいな感じで、すごくよかったです。
最近、メキメキ実力をつけてこられているアンサンブルキアーラや、昨年、全国でご一緒した、創価男声は残念ながら聴けなかったのですが、とてもよい演奏をされたようです。
そして、今年Aの代表となった、アンサンブルVine!
当日の録音を聴きたかったのに、当日売りの音源はすべて売り切れ。何とかメンバーさんに録音を聴かせてもらった、うちの副団長はあまりの完成度の高さに驚いたようです。わずか10回の練習だけなのだそうですが、メンバーの質の高さ、そして何より、指揮者伊東さんの存在の大きさ!すごい!!

(練習の)質より量で勝負するシェンヌが、全国までにできることは・・・。
やっぱり、量を増やすこと、かなあ。哀しい・・・。

[リガ室内合唱団アヴェ・ソル]10/15 NHK大阪ホール
アヴェ・ソルが前回来日したとき、京都でその演奏を聴きました。もう一度聴きたい、ということもなかったので、今回は別にいいか・・・、と思っていたのですが、どこかのHPに「聴かなきゃ損」みたいに書いてあったので、じゃあ、ということで急遽、当日券で聴きに行ってきました。
はっきり言って抜群にいい声じゃないんですよね。テクニック的にも・・・。ソロを聴いても「すごいっ!」とは思わないし、特に男声はテナーは薄い感じだし、ベースも軽いんじゃない?パート間の声のブレンド感はすばらしいけど、それはむしろアマチュア的かもしれない。
そう、結構どこにでもありそうな素朴な合唱団でした。

しかーしっ! いやー感激しました。いや感動しました。

「歌が そこにある」
それを感じた瞬間、心が震えました。
当然、声もテクニックもあるから伝わるんだろうけれど、それを感じさせない・・・、いや、それを超えたところで生まれる感覚。

不覚にも、音楽を聴いて、生涯5回目の涙を流してしまいました。

[全日本合唱コンクール 高校の部]10/30 東京・府中
高校の全国大会を聴きに行くのは今年で何度目になるのかなあ。大学1年から毎年だから、えーっと、今年で23年目か。
このコンクールを聴いて高校の先生になろうと思ったし、今でも生徒を引き連れて全国のステージで歌ってみたいという夢は持ち続けています。

一般の合唱と違う、その作り込まれた音楽は、時に一種の息苦しさを覚えますが、ピュアな感性がほとばしる、その一瞬を見つけたときは、耳からつながる心が、底のほうから透明になるのを感じ、素直に感動します。
普段、シェンヌでは決して聴けない(にごりのない?)音を求めて、今年も聴きに行ってきます。
ただ、そのためにシェンヌの大切な練習をお休みしてしまいます。ごめんなさい。
年に1回だけのお休みだから、ゆるして、ね。

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  [37] 残念だなあ 2004/09/27 23:16:12 

まずは残念なご報告から。以前にここ([Click])にも書いたことがありますが、シェンヌの母体である橿原高校の30周年記念式典での演奏が、諸事情により実現しませんでした(涙)
理由は学校側とシェンヌ側の単なる意思のすれ違いだったと分かったのですが、準備を進めていただけに本当に残念です。しかし橿原高校の担当の先生はすれ違いを嘆き、残念がってその経緯を誠意を持って説明してくださいました。でも、いいえ、私たちは怒ってるんじゃないんです。本当に残念だったのです。それだけなのです。
「次の機会には是非演奏してください」の言葉をいただきました。
「ええ、もちろんですとも!」

さて、関西コンクールまで残りわずか2週間となりました。仕上がりは・・・。
案の定、最悪です。ある程度予想はしていましたが、やはり現実のものとなってしまいました。「多分、後にも先にも一度きりのシードなんだから」と繰り返して話はしていましたが、気持ちが充実しているとはとても言えない状態です。
そんな中、先週の連休を利用して7年ぶりの合宿をしました。・・・男声だけの合宿です。同じ時間だけ練習しても合宿だと能率があがりますね。気分だけかもしれないけれど、不思議です。夜の研修会?は1時までのお約束が結局4時までに延長されて翌日はフラフラでの練習となりました。

しかし、合宿ってやはり夜も全員揃わないと意味がないんだろうなあ。都合で練習だけに参加するってパターンはもちろん「あり」なんだけど、今の団の状態とか、みんなが考えてることって、練習以外の部分でしか見えないこともあるしね。それぞれの生活があってひとつの予定に合わせることは大変だけど、次回はみんなで揃いたいね。

先日、新しい仲間が入団してきました。シェンヌでは年に2〜3人入ればいいところかな。しかし、そうかと思えば比較的新しいメンバーが二人去っていきました。事情は様々。
こんなことを幾度となく繰り返し繰り返し・・・。表面にいる今のメンバーだけを見れば、絶えず新しいものだけがそこにある新陳代謝のようにも見えますが、実質的にはそれは堆積していて、今あるものはその表層なのだと思います。
「今」を過去(歴史)が支えているということ。
30年前に産声をあげた高校の合唱部が年月を重ねて、今のシェンヌがあります。その重層の中にあるもの−夢や思い−は不変です。

どんな結果や実績があっても何も変わらないシェンヌが大好きです。しかし、今見えていることだけを追い求め、いやそれに追われて、それぞれの大切な時間が目の前を通り過ぎていくような状況を、私たちの営みの表層に重ねていってもよいのでしょうか?

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  [36] 忘れられない記憶 2004/09/02 21:51:47 

あ〜あ、新学期。そしてコンクールシーズンの到来。
そう言えば、私がまだ高校生の頃はNHKコンクールの県予選が9月15日に固定されていました。朝から夜まで中学も高校も続けて演奏していたと思います。活気あったよな、確か・・・。
おそらく、大学入試の制度も今とは違って、日程的にもっと後ろにずれていたんでしょうね。どのクラブも3年生が秋まで活動していました。「勉強に専念するから」なんていう理由で辞めていったヤツはいなかったよなあ、確か・・・。

それに比べて今は、「他にやりたいことができたから」とか「中途半端な気持ちだとみんなに迷惑かけるから」とか「お母さんが辞めろっていうから」なんて理由で簡単に去っていきます。こちらが、いくら頑張って生徒の心に触れる話をして(いるつもりで)も、「いえ、もう決めましたから」・・・って。
「おまえ・・・そんな寂しいこというなよ・・・」と心の中では思いながらも、「ま、自分の決めたことなんだから、辞めても精一杯がんばりなさい」とか、思ってもないことを教師ぶって言っている自分があほらしい。しかしまあ、そんな生徒に限って、辞めた後は何もしないでだらだらしているケースは多いですね。あ、もちろん、本当に頑張った生徒もいますが。

今、私が勤務している学校は公立の普通科校ですが、スポーツのコースがあって、運動部が盛んで、文化部に所属している生徒って、正確にはわからないけど、全部合わせても50人もいないんじゃないかなあ。私は転勤してきて2年目です。もちろん合唱部を作ろうと試みてはいますが、難しい状況です。この学校で4校目。今までの3校は合唱部が存在しない学校でしたが、同好会から立ち上げ、なんとかコンクールに出場できるレベルまでは持っていけたのですが・・・て。いやあ、「今の生徒たちは」とか「みんなスポーツばかりするんですよ」みたいな理由って、怠慢教師の言い訳でしかありません。ええもちろん私のことです。

私の父は「どんな少ない人数でもコンクールに参加し続けなさい」と教えてくれて、そのことの本当の意味を、実際続けてきたから理解できた部分もあります。
自分自身にとっても「続けなければならない」、と思う緊張感はとても大切です。当たり前のように人が目の前に集まってくることなんてあり得ない。
集める努力、集まる魅力、そして続ける熱意。

現状に甘んずることなく、「伸びを感じているときの状態」を維持することが、合唱団の活気と魅力につながります。放っておいても前に進んでいく時期っていうのは確かにあるんだけれど、それってすでに惰性の段階ですよね。
おーい、シェンヌ、大丈夫か〜。

学校の合唱部には中学で合唱を経験していない生徒がたくさん入部してきました。一から声作りをしなくてはなりませんが、変なプライドや先入観を持たないことは「色」を作るのには好都合です。そして高校3年間ですっかり合唱にハマる部員も少なくありません。
しかし、一人ぐらいうちの合唱部に憧れて入部してこないかな・・、なんてよく思ったものでした。

いつも話に出てくる平城高校で、少しずつ「実績」を積み上げて、ようやく「スタイル」が形作られてきたころのこと。入試発表の日に県内の、ある合唱名門中学の顧問の先生が発表を見に来られていて、「うちの部長が平城の合唱に憧れて受験して受かったから、よろしく頼むぞ」と言っていただいて、飛び上がりたいほどうれしかったことが、たったの一度だけあります。その日の内に現役部員にもそのことを話し、一緒に大喜びしたものでした。あれは本当に嬉しかった・・・。

ところが、そのわずか10日後、年度末の人事異動で私は、転勤。内示を受けたのは音楽部の定期演奏会の2日前のことでした。さまざまな事が思い出され、同時に2日後の演奏が最後なのかと、諦めきれないような、何とも切ない気持ちでした。内示の日の吹奏楽の練習では部員に事実を伝え、それでも残された時間も少ないから、と複雑な気持ちで合奏をしました。

「合唱部員には明日にでも話さないと」などと考えながら車で帰宅しているとき、
突然あることを思い出して「はっ!」としました。
「あの、生徒、4月に入学してくるあの子をどうしよう・・・」それに気づいた瞬間、胸を締め付けられるような辛さに襲われ、涙が出ました。
今考えれば彼女は「平城高校の合唱部」に憧れて入ってきたのだから、私の転勤は別に問題なかったのかもしれません。しかしその時の私は、彼女に対して申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
その生徒は結局高校でも3年間合唱を続けました。毎年顧問が替わり、3人の指揮者のもとで歌うというあまり例のない苦難に遭いながらも部員を引っ張り続けました。ありがたいことです。頭が下がります。

現在は縁あって私たちの仲間となって歌っています。
熱を冷ましてしまわないこと。そのことがやがて生み出す大きな力。
 「継続は力なり」・・・ いいえ「継続」のその前に、それを生み出す熱い熱い思いがあるのです。

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