[27] 涙の質 2004/03/11 01:04:06 

最近、なんだか涙もろくなったと思います。
本を読んでも、悲しい出来事に接しても、ドラマを観ていても、その他日常の様々な場面の普通の出来事に「何かを感じて」自然と涙が出そうになることが、多くなってきました。
単に感激や感動や悲しみの涙とは何かが違う・・・なんだろう・・・?
と、考えていてふと思ったんです。
「そういえば、最近音楽聴いて感動しないなあ」・・・と。

先日(7日)放送の「N響アワー」は2月の定期公演からブラームスの交響曲1番でした。急遽、ピンチヒッターとして指揮台にあがった尾高忠明さんは、昔に比べてなにか随分と小さくなったように見えました。しかし実際にはどの程度の準備期間があったのか、わかりませんが、その指揮には無駄がなく、最初、ややオーケストラのほうが安全運転しているようにも感じましたが、指揮者のマジックのような牽引力で音楽が生命力をもって輝きはじめました。

「結構、いい演奏やん」と、4楽章が終わると、非常に納得させられた感があって思わず拍手していました。そこで画面は司会者の池辺先生と若村麻由美さんのコメントに切り替わったのですが・・・なんと、司会者である若村さんが泣き出したのです。
「とても感動した」らしくその後の司会原稿がはっきりと読めないくらい泣いているんです。

感動・・・涙?
物語のストーリーやその内容に感激して流す涙と違って、音楽、殊に予めよく知っている音楽を聴いて感動するっていうのは、その「演奏のあり方」と自分との関係の中で起こる感情なのだと思います。
「上手い」とか「すごい」とか、演奏の完成度やパワーに圧倒されたり、納得させられたりすることはよくありますが「感動できる演奏」に出会えるのは、実はものすごく稀なことなのかもしれません。

放送中の司会者の心の中にどのような「投影」があったのか、それは知る由もありませんが、少なくとも私が過去に「冷静な状態」で聴いた演奏に涙をながしたのは、たったの4回です。
13歳の時に初めて生のオーケストラを聴いたショルティ指揮シカゴ響のマーラー5番。ジェシーノーマンの歌ったラヴェルの歌曲。リヒテルの晩年に聞いたラフマニノフ。それと3年ほど前に聴いた全日本合唱コンクール一般Aの、ある女声合唱団の演奏。

感動の涙は無条件に流れます。頭の奥の奥のほうで言葉にならない言葉が叫ばれた直後に流れ出します。それはごく自然で、何の理由も必要としません。

必要なのはニュートラルな心のあり方。その意味では私の最近の音楽に対する接し方は間違っているのかもしれません。頭で考えすぎているのだと思います。
ですから司会者が流した涙は、今の私にはちょっとショックではありましたが、逆にすごく素敵に映りました。

ではアマチュア演奏家の立場としては・・・?
誰かに涙を流してもらえるような演奏は限りなく不可能に近いですが、我々の持つ「心の質」が最終的に音楽の質を決定付けるということを忘れてはならないと思います。そしてそれは、最低限必要とするものでありながら、同時に求めるべき理想でもあります。
「究極の基本」とでもいうべきものなのでしょうか・・・。

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